春は曙、歌は瞬間。
気がついたら年度が変わって、好きなバンドのメンバーがひとり減っていた。
私はそのバンドが大好きである。しかし、私にはバンドを追っかける程の体力も気力もなく、アルバムをアマゾンで買うくらいの関係である。
私は、音楽を動画サイトで聴くのが大好きな人間だ。
特に、カバー曲を、あの独特な掠れた音の不安定なライブ音源で聴くのが大好きだ。
きっと、これからの音源には、ひとり減った音が紡がれるのだろう。
私はこれを寂しいとは思わない。
歌が変わっていくことは、寂しいことではないのだと思う。
歌は変化していくものである。
別に、「○年の音源はこれで○年だと…」みたいな面倒くさいファンになりたいわけではない。
歌が変化するのが楽しいのだ。
同じ音源でも、電車の中と自分の部屋で聴くと違う音になる。
私はその違いを楽しく感じる。
CDの寿命は意外と短いし、今聴いてる歌なんて、100年後には何も残ってないだろう。
それでいいのだと思う。
きっと私がこの文章を書いたことすら、3年もしないうちに忘れるだろう。
忘れたくない、わけではない。
ただ、今聴いてるCDのフレーズをからインスピレーションを受信して、100年後には違う歌ができるのかもしれない。
歌手… 特にバンドなんて、永遠とは1番遠い存在だと思う。
だがしかし、メロディには永遠性があるとしても。
古来より、歌は刹那的で瞬間的で、ロックンロールで、私はこの瞬間的な爆発に永劫の音楽を感じるのである。
ただ、こんな面倒くさい気持ちを、歌に対して感じているだけなのだ。